『市民科学者として生きる』高木仁三郎
中学のとき、この種の生徒はどの学校にも一部いるものだし、いるべきだと思うのですが、いわゆる“反抗的な”生徒たちがいました。反抗的なその子たちと、従順な私たちは、人間の成熟度としてはほとんど青二才なのですが、そのために、だからこそ、両極端になってしまったのだと今は思います。自分自身は、目立つことを恥じ入る資質が強く、学校や社会への不信感などを感じてもなんとか押さえ込んでいましたが、同時に自分自身が、そして彼らもそれほど意思というものもない空虚な存在であることは考えていたので、その点ではやたら出しゃばらないというところに優越感を持ってもいました。表面上対岸に位置する彼らの、やんちゃさ、アホらしさ、切実さは、欺瞞と謙虚としての自分自身にとって常に軽蔑と憧れの対象として、強く“必要としていた”ような気がします。それは例えば身なりの派手さは慎重に避けつつも実はロックに憧れていたとか、人のやさしさに憧れながら、シンセサイザーの無機質な電子音に酔いしれていたとか、日々直面せざるをえない自らの矛盾、気持ちを不安にさせて止まない破壊力のようなものにかかっていたと思う。
例えば気に入らない教師がいたり、気が乗らない授業があったり、気に障るシステムがあったり、そういうものに無知なりにもぶつかっていくことは少なくとも一つの反応として意味を持つ、対して何も言わずに-それがいいとも、悪いとも、嘘だとも本当だとも、子どもらしいそういう単純な感覚をただ押し込んで、感動もせず、怒りもせず、ただ与えられた日課をこなすだけの毎日は、与えられた恩恵を享受しているということの反応ではなく、むしろ無反応そのもの。無反応に無反応で安心される気楽な場所に落ち着いていた私たちの多くが、わざわざリスクに飛び込んでいった一部の“例外”にどれだけ支えられていたかということは、もはや明白であるし、感謝もしています。
この『市民科学者として生きる』を読んでいて、著者の揺れながらも常に自分を見つめようとする真摯な姿勢に、論理的に感動しました。というのも、こういう揺れを論理的に説明していくのはとっても面倒で、まだ自分のことくらいしか思慮の行き届かない私のような学習生だったら、ときに挑戦しようと頑張る理屈もわかりますが、ある領域の専門家たる人間がその専門性を「市民」の言葉に降ろす、著者の言葉をそのまま引けば、“話がわかりにくくなる、この十をいかにして一にするか”という訓練を、専門家としての立場と市民としての立場から、根気よく粘ることは、本当に想像を絶する苦労ではないかと思います。同時に、自分自身が確認しえた科学的根拠を導くのに一筋縄ではない物事、ムズカシイ物事を、いちいち常識的な、あいまいな言葉にして、なんとか少しでも的確に伝えようとする姿勢そのものが、とても価値のあるもの、そしてその積極的で学習的な姿勢こそが、著者が真に目指す「市民」たるものの輪郭ではないかと感じられるからです。
また、この本では(私は)よく学んだことのない原発のしくみやそれを取り巻く情勢、プルトニウムの脅威など必要なことを知ることができるので、いい本だと思いました。慣れないところに逃げ腰になりつつ、字面だけ読んでいた箇所もあるので、しばらく時間を置いてまた読み返せたらと思っています。
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