2006年5月10日 (水)

『市民科学者として生きる』高木仁三郎

Photo 中学のとき、この種の生徒はどの学校にも一部いるものだし、いるべきだと思うのですが、いわゆる“反抗的な”生徒たちがいました。反抗的なその子たちと、従順な私たちは、人間の成熟度としてはほとんど青二才なのですが、そのために、だからこそ、両極端になってしまったのだと今は思います。自分自身は、目立つことを恥じ入る資質が強く、学校や社会への不信感などを感じてもなんとか押さえ込んでいましたが、同時に自分自身が、そして彼らもそれほど意思というものもない空虚な存在であることは考えていたので、その点ではやたら出しゃばらないというところに優越感を持ってもいました。表面上対岸に位置する彼らの、やんちゃさ、アホらしさ、切実さは、欺瞞と謙虚としての自分自身にとって常に軽蔑と憧れの対象として、強く“必要としていた”ような気がします。それは例えば身なりの派手さは慎重に避けつつも実はロックに憧れていたとか、人のやさしさに憧れながら、シンセサイザーの無機質な電子音に酔いしれていたとか、日々直面せざるをえない自らの矛盾、気持ちを不安にさせて止まない破壊力のようなものにかかっていたと思う。

例えば気に入らない教師がいたり、気が乗らない授業があったり、気に障るシステムがあったり、そういうものに無知なりにもぶつかっていくことは少なくとも一つの反応として意味を持つ、対して何も言わずに-それがいいとも、悪いとも、嘘だとも本当だとも、子どもらしいそういう単純な感覚をただ押し込んで、感動もせず、怒りもせず、ただ与えられた日課をこなすだけの毎日は、与えられた恩恵を享受しているということの反応ではなく、むしろ無反応そのもの。無反応に無反応で安心される気楽な場所に落ち着いていた私たちの多くが、わざわざリスクに飛び込んでいった一部の“例外”にどれだけ支えられていたかということは、もはや明白であるし、感謝もしています。Photo

この『市民科学者として生きる』を読んでいて、著者の揺れながらも常に自分を見つめようとする真摯な姿勢に、論理的に感動しました。というのも、こういう揺れを論理的に説明していくのはとっても面倒で、まだ自分のことくらいしか思慮の行き届かない私のような学習生だったら、ときに挑戦しようと頑張る理屈もわかりますが、ある領域の専門家たる人間がその専門性を「市民」の言葉に降ろす、著者の言葉をそのまま引けば、“話がわかりにくくなる、この十をいかにして一にするか”という訓練を、専門家としての立場と市民としての立場から、根気よく粘ることは、本当に想像を絶する苦労ではないかと思います。同時に、自分自身が確認しえた科学的根拠を導くのに一筋縄ではない物事、ムズカシイ物事を、いちいち常識的な、あいまいな言葉にして、なんとか少しでも的確に伝えようとする姿勢そのものが、とても価値のあるもの、そしてその積極的で学習的な姿勢こそが、著者が真に目指す「市民」たるものの輪郭ではないかと感じられるからです。

また、この本では(私は)よく学んだことのない原発のしくみやそれを取り巻く情勢、プルトニウムの脅威など必要なことを知ることができるので、いい本だと思いました。慣れないところに逃げ腰になりつつ、字面だけ読んでいた箇所もあるので、しばらく時間を置いてまた読み返せたらと思っています。

| | コメント (3174) | トラックバック (719)

2006年3月31日 (金)

『ラブ&ホップ』村上龍

これを読んで、数日前読んだ彼のエッセイで言及されていた「危機感」なるものを、当の村上さん自身から投げつけられた気がしました。Amazonで「村上龍」を検索すると、なんと306件・・びっくり!特段28344527、情報や文学に飢えているわけではないですが、ただ、彼の作品を“もっと読みたい”って思ったら、ただの数字にびっくりしました。『ラブ&ホップ』、そこら中に共感し、感情移入が完璧だったので、あっという間でした。

“あの指輪だけはあきらめたくない、と裕美は思った。あと五万あれば買えるが、自信はなかった。手に入れようとして一度失敗したものを、自分がもう一度手に入れようとするかどうか、あの指輪が試しているのだろうか?来週、海へ行って、自分の中指には、あの指輪がないんだ、何かが足りないんだ、そう思わなくてはいけないが、そう思うのは楽しいことではない。別にいいや、と思って友達とはしゃぐほうが楽しい。自分には何かが足りないという個人的な思いは、その人を孤独にするからだ。

そうするうちに、あの指輪と自分のつながりがゆっくりと消えていく。何かが欲しい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、それはとても難しい、きっと自分には不可能だろう、裕美はそう思った。”(P.221)

“思い立つ日が吉日”/“思い立ったら即実行”。この言葉はいつから広く使われだしたのでしょう?これは本来、実行すればそれはそれでいいけれども、実行しなくても別にやっていけることに使われるのではないかと思いますが、現代を彩るあらゆる衝動的なもの、突発的なもの、その豊かさの中に流れる異常なほどの速さには、“別にやっていける”ことの寂しさ、無力感があるのかもしれない。欲しいものは、本当はなくても生きていけることがわかっていて、その時を逃せばその欲望はたちまち消えてしまう、そのとき絶対的な無力感に襲われることの恐怖といったら、ない。それは上記の文中の「何か足りない」という感じの無力感ではなくて、「最初から何もない」という無力感、“脱力感”というといいかもしれません。力が抜けたまま、入らない感じ。

「会う直前って究極の可能性でしょ?」(コバヤシ・主人公裕美の友達にケイタイを貸したおじさん)

言うまでもないけれど、援助交際では、他人に出会える(他者性といったほうが近いかもしれませんが、ここではあえて)。コバヤシの説教中、ふと(柴咲)コウちゃんがテレビかなんかで話してたことを思い出しました。小学生のころ北海道へ行ったとき、知らない子どもに突然「こんにちは!」と元気良く挨拶されて、ビックリした。恥ずかしくて声が出ず、逃げ出してしまった。そのことが今でも心の中で消化できてないという話。その気持ち悪さは、たぶん、後悔や罪悪感といったモラルの次元ではないように思います。自分が他人として枠の外に見ていた人の枠の中に、いつのまにか自分が入っているという恐れ、不安、そんなものではないかと。孤独だけれど出会いの可能性を持っている人、親密だけれど他人と出会うことをやめた人。テレクラで待ち合わせして顔も知らない人に会う瞬間、なんかドキドキする感じはわかる気がします。いや、すごくわかります。

村上さんは、取材して出会った女子高生たちが“非常にまともで、あまりにも洗練されていた”ことに“今までにない深刻な危機感”を持ったそうです。未来に対して欲や希望なんて持っていないが、ひどく心を病むわけでもなく、勉強も付き合いもそれなりにうまくやっていく、社会の欺瞞や嘘を見抜いているが、それを口に出すわけでもなく、利用もするし、それなりにうまく沿っていくし、息抜きもする、おしゃれも楽しむ、すまし顔で器用に生きていける・・・でも、それでも、人と人の間にある何か、価値のあるものを、彼女たち自身がまた知りうるということもある。少なくともこの小説にはそれがあるので、気持ちが揺さぶられるのです。

裕美は、男が自分の直したぬいぐるみを抱いてうれしそうにするのを見て、うれしかった。それは“普通の付き合い”ではきっと、できない。“普通の付き合い”のなかでは、お互いは自分をどう見せようとか、相手をどう満たしてあげようとか、この場ではこういう風に振舞った方がいいとか、周囲はどう見ているかとか、あらゆる面に自意識が働くもの。それは、続くことを前提としているからかもしれない。けれど一度の取引の中では、ただ「買う人」「売る人」の単純な形式だけがあります。自分が他人として差し出されること、そして、その自分には価値があると認められうること。その可能性への、賭けや期待のようなものが、ときおり見え隠れするのです。

援助交際というのは語り口に過ぎないですが、その語り口は大きいもんと思います。例え分からなくても、理解しようとしなければ、その語り口が語り口であることもわからないまま、敵だけが増えてしまう。

| | コメント (875) | トラックバック (260)

2006年3月29日 (水)

『骨髄ドナーに選ばれちゃいました』(石野 鉄)を読んで・・・

医師独断による安楽死事件の新聞記事を集めています。まだ読んでいません。そのうちPhoto_5 読む予定です。2ちゃんねる発の『骨髄ドナーに選ばれちゃいました』を読むのに7時間以上もかかりました。掲示板形式の簡素な文章でこれだけかかるのだから、新聞なんか毎日一部読むとしたら、一日の何分の一を新聞に費やせばいいのでしょう?(というか、何日もかかるか・・・)私はそんなに多量の情報についていけません。欲してもいません・・。だから新聞にも番組にも多くは触れません。社会系学部なのに政治や経済についてはお手上げという有様です。そんな自分でも唯一「知っている」と言えること、それは人がいつか死ぬということです。自分だけでなく、家族も友だちもいつかみんな死ぬということ。私が興味を失わないでいられるのはその“死”だけのような気もします。だから、人の死がどのように扱われるか、ということは常に関心の対象です。人の死はそれぞれに訪れるけれど、人はけしてそれぞれに自分の亡骸を焼くことも葬ることもできません。人は独りで生まれることも独りで死ぬこともできない。それなのに独りで生きていると思う・・。人は生まれたそのときからバラバラになるために、一人前に自立するために、教えを受ける・・。

「いろいろな意味で・・・人は誰でも原罪を背負って生きていると考えている。」・・・という鉄さんの言葉が、深く心に染みた気がしました。わたしはその罪は、もしかしたら、人として生まれたことそのものだと、“自分”というものの誕生そのものかもしれないと思っています。“自分”を持つことができるのは、人間だけで・・。でも、それでも、なんらかの“恩返し”の仕方・・報いの仕方、感謝のしかた、そのひとつにボランティアがあるかもしれないという鉄さんのさりげない呟きに瞼が熱くなりました。見ず知らずの人間の命のために我が身にメスを入れること、それ自体はそういう気になったことがないので、肯定も否定もできないのですが・・どんな疑いを抱いても、科学はもう発達しちゃってるわけで、ひとつの可能性になっている。生体移植や献体、自分の大切な人がするといったら否が応でも止めてほしい。でも、反対に、もし自分の子どもなり大切な人がそれによって助かるかもしれないのなら?その可能性に縋ってしまうだろうな。自分は絶対ドナー登録なんてしない!ってずっと思ってましたが、これを見て、今までになく“逆の場面”についてリアルに想像してみたかもしれません。

この本では「骨髄ドナー」という至極近代的な課題を通して、すごく昔からある根本的で容赦のないことを皆が議論しています。

ところで、移植を待っている患者さんが、骨髄を抜いて無菌室に入ったらもう後には引けないというか、その後でドナーからの提供ができなくなったら、もう終わりなんて・・考えたことなかった。その日はDAY0(デイ・ゼロ)って言うんだそうです。どちらにとってもものすごい賭けなんですね・・。そんな重圧下でとことん悩みぬいていく鉄さんの実況レポートはどんな広告より勉強になった気がします。身近になった分、結局以前より混乱してきました。

写真:処分前のデモールホセカ・・・。根詰まりを起こしていたので、萎れた花を鉢から抜いて、土をはらって根を広げてバケツの水に浸したのですが、根が細くチリチリに千切れてしまったため、しばらく経っても起き上がらず処分しました。でも上から見ると咲いてる花よりきれいとも感じられる。そういえば息を引き取った人間も、上からしか見たことないです。どんなに思い出が美しくても、向き合うことができるのは生きているものなのかなぁ。。

| | コメント (1206) | トラックバック (37)

2006年3月23日 (木)

『20世紀少年』

浦沢直樹さんの『20世紀少年』という漫画を読みました。内容はミステリアスな要素もいろいろあっておもしろいのですが、なんといっても1960年だいに少年時代を過ごした人びとの明るさといったら新鮮です。人類が初めて月に立ったのは1969年だったんだ・・・“僕も、絶対月に行くぞー!!” そんな夢が見られた時代。今は?ケータイの新しい機種が出ようがもうどうでもいい気がするし、オリンピックも我が家ではいつのまにか終わっていました・・核戦争が起こるかとか、地球が滅びるかとか、そのくらい極限まで来たところでしか世界全体でドキドキすることなんてもうないのかな。

久しぶりに生き生きとした物語を読んだので、心が冴えてしまい、時間が遅かったけれど、最近寝る前に少しずつ読んでいる『死なないでいる理由』を今晩も読みました。なんだかいつもよりも感情に雑のないまま読んでしまったからか、ある部分で止まってそれ以上先が読めなくなってしまった。  「生命倫理」って言葉はいつ頃から身近になったんだろう?命について考えるようになったのは、欲望としてそれを欲っするようになったのは、この身体を通う科学の力に、もはや想像力は追いつけなくなっってしまったから。そのズレが蝕む本来の豊かさと、生まれたそのときから奪われていた夢の大きさに、愕然としてしまう。

今日、一種の障害をもつ人のコミュニティを設立しようと、ネット上で仲間を募った。何もしないでも生きていられる現在、命を実感することが難しいのは当然だし、あえて何かをしようとするのが難しいのも当然だと思っているので、この提案も同様に難しいことは覚悟していました。それでも、とある同障害の掲示板にその宣伝を載せたところ、一人の人から「趣旨は違っていないけど、宣伝はやめてほしい」と言われたので、さすがにショックを受けました。営利目的でもアクセス数稼ぎ目的でもない、もしかしたら誰かと力を分かち合えるかもしれないと思ったのに・・・でも、やっぱりしかたがない。とりあえず楽しむことと、とりあえず繕うことと、とりあえず寝て食べることができるのは幸せです。

ああ、月に行ってみたい!☆

| | コメント (1205) | トラックバック (163)

2006年3月21日 (火)

驚いたこと

ホワイトデーからやっと一週間が経ちました。わたしはあの日県庁の星ホワイトデー舞台Kouupp 挨拶を見に行きました。もちろん愛する柴咲コウさんを拝見するためです。

コウちゃんはあの日、鏡のように輝くさらさらストレートの黒髪に、ジーンズ生地の短パンに、キャミソールの二枚重ね、その上に真ん中が見事にパックリ割れた(!)黒いワンピースという出で立ちでした。ちょっと動くだけで、その黒いワンピースが左右に退き、白い足が見え隠れするという奇抜なファッションに、間違いなく会場中が注目!お辞儀をするたび、太ももが「丸見え」になってしまい、思わず「見てもいいのだろうか」と戸惑ってしまうのは意識的か無意識的かに関わらず彼女自身のトリックでした。隠しを当てることで目立たせるというやり方をあれほど大胆にやられたのは、しかもそれを近くで見られたのは、天地がひっくり返るほどの驚きと感激でした。

そして、わたしは世の中のことを知ったつもりで本当はなんにも知らないんだ!と思い知りました。だからもし苦しいことがあっても、それは不完全な世界の一面や、不十分な情報の乱雑を前にして嘆いているに過ぎないんだって。Tomorrow never knows It's happyline というのはYUI語ですが、わたしにとってコウちゃんはそんな存在です、不思議な人です。豊かな表情、機敏な仕草、他者への確かな眼差し・・・昨日今日で村上龍さんの「明日できることは 今日はしない すべての男は消耗品である vol.5」という不誠実なエッセイを読んだのですが、その中に「欲望を抜きにして、希望はありえない」という一文がありました。哲学者の鷲田さんは、現代人は「欲しいものが欲しい」のだそうです。「頭痛が痛い」は意味が重複していて見苦しいですが、「欲しいものが欲しい」はアリです。そういえばメゾン・ド・ヒミコでも、オダギリジョーさん演じる春彦は「欲望が欲しいんだよ」と言っていました。英語で言うとI want to want です。I want what I wantとなると、“なんといっても(これが/それが/あれが)欲しいんだ!”となってしまうみたいです。whatが確定しないまま求める、求めたいという感覚は、それ自体を論理的に考えると頭が狂いそうなのですが、感覚的にはものすごく実感が沸きます。それは自分がまた現代人の典型だからでしょうか。でもコウちゃんはたぶんwhatを持ってる、「whatを持ってる」といって言いたいのは「what」がなんであるかということではなくて、“具体的な場所や他者に向かって繋がっている確固としたもの”が、あるということです。そして、再度村上さんの言葉を借りると、そうした「他者の想像力」が、(意識的なレベルでの)「コミュニケーションの不完全性」が、「表現」のエネルギーに直属しているはずです。あの場所に、あの人に、伝わらないから伝えなきゃという意志、というより、もっともっと強くて長いもの・・・必要性や必然性といってもいまいち違うような気がする。。遺伝?運命?ぜんぜん、言葉にならないです。

| | コメント (495) | トラックバック (157)

2006年3月19日 (日)

イラク開戦3周年

明日20日で、米英によるイラク攻撃開始から3年が経つらしい。新聞もテレビもほとんどPhoto_2 見ず、見たところで一つの物語として処理してしまうだけの自分にとって、その歴史的事実(というものも物語りに過ぎないが)は、「らしい」でしかない。が、ふと、“気づいたら箍が外れていた”のはいつだっけと思い直してみる機会もないわけではない。平凡でも非凡でもない揺れながらの日常の中で、起こるはずのなかった暴力が起きたとき、叶うはずのなかった夢が叶ったとき、掴んでいるはずのものが消えていたとき。そして、それらの喪失を埋めるようにして、破壊や束縛が求められているとき。オタクや神経症、暴力や健康という執着、コスプレ、写真といった身体性の破壊、そうしたあらゆるサブカルチャーやあらゆる流行は、生の喪失と対になった死への衝動とも捉えうるものだ。9.11事件は、“みんなの悲劇”として持てはやされつつ、映像や物語として大いに消費されてきた。あの映画のようなゲームのような破壊活動が遠く海を越えて茶の間のテレビ画面に映し出された瞬間から、まさに最高のhis・storyでしかなかったものを私たちは、少なくとも自分は、受容し欲望もしていたように思える。『華氏911』が大ヒットして、私もそれを楽しんで、ムーアのメーリングリストに登録してみたりCNNで総選挙を見送ったりして、でも時間が経ってその“興奮”が冷めてきたとき、初めて自分は戦争という“悪”に、ではなく、戦争という“破壊”に心を奪われていたのではないか・・・?悪などというシステムは既に機能不全で、あるのはその場限りの興奮ではないのか、そんな疑心が沸いてきたのは必然かもしれない。最近読んだ鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』では、無政府状態で常にバカ騒ぎしている2ちゃんねるや、何かネタを手にしては突発的に起こるバッシングなど、行き場を欠いたその場限りの盛り上がりを「カーニヴァル」と呼び近代の特徴付けに試みていた。 といっても、もし今目の前にいる人が電車に突っ込もうとしていたら、およそ誰でも平常心のある限りたとえ無力でも、「その人」を助けようとすると思う。「その人」は「その人」であって、「誰か」ではない。「おもしろそうだから見ていよう」とならないのは、その人の顔が見えるからだ。グローバル化が進めば進むほど顔の見えない誰かが増えていく、体験することのない「想定内」の人たち・事柄ばかりが日常を埋め尽くしてそれが現実になるなら、想定されえない現実-つまづき、衝突、迷いのないデータばかりが、身近なものとして無意識を埋め尽くすのなら、わたしという自然も、環境と言う自然も、また神という救いももはや自ずと排斥されうるものである。

アメリカが推し進めている価値観のグローバル化。どうすれば自由になれるか、の前にあるべきの、自由とは何なのかという反省。。

死なないでいる理由』鷲田清一氏の引くところによると、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。これはT・アドルノが1947年に書き付けた言葉らしい。が、

“その後もこの世紀は戦争をあくことなくくりかえす。冷戦(という、戦争を不可能にする戦争)、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、世界各地での内戦や民族紛争におけるジェノサイド(大量殺戮)・・・。一九九九年に多木浩二が述べた言葉を引けば、詩を書くのが「野蛮」なのではなくて、戦争はもはや「詩を書くことでしか乗り越えることはできない」のではないかと思えるほどに。”(P.56~57)

| | コメント (1754) | トラックバック (405)

2006年3月16日 (木)

「てんのみかく」/ゆう

“鳥の様な羽を付けても 果たしてどこに飛び立てばいい 巣を手にしても壊されてしまう 記憶という痛みに 最後に残るのはいつもあたしで 嗚呼砂の現実よ”(03.黒蜜)

“見てしまったの赤く染まった未来は明日を照らさずに罪なき罰をただくれた 壊れたビロードの首輪 もう2度A0035483_2243983_1 と帰りはしないわ ・・・御主人様それはあたしを透明の箱にとじ込めたそのトリックなのよ”(06.胡麻擂り)

“存在するは、失う事です。いつしかあたなを これに涙するのも、自然な事で・・・狭すぎるガラスの鉢の中でずっと もがきもせずに、未来の餌をほおばってた”(08.葉月)

“さあここには楽という文字しかありません 昨日までの苦行はまるで嘘のようだ・・・さあここでは愛というものも意味を成しません 守るものがない苦しみを初めて知った・・・それにしても灯りは闇のない場所では役に立たないと気づいたんだ それにしても風は生き物がいる場所にしか吹かないと気づいたんだ”(09.天邪鬼)

“彷徨うこともなくいつもの場所にいるだけの あたしを潰してしまったのは誰?”(10.小豆)

『てんのみかく』はGO!GO!7188のヴォーカル&ギター担当、ユウ(中島優美)さんが単独で出した今のところ唯一のアルバムです。GO!GO!7188のときはたいてい作曲がベースのアッコ(浜田亜紀子)さん、作詞がユウさんなのですが、ここでは作詞もユウさんがやっています。幸せでいてもやがてそれは消え去ってしまうから、幸せになりすぎてはいけない、今ここにあるものは本当は何もないのかもしれない・・・時代が流動化していく中でのそうした喪失感情、所有への懐疑が、これはGO!GO!7188でも『ななし』『瑠璃色』などでも象徴的に唄われていると思うのですが(インタビューなど読んだわけではないですが)、ゆうさんはまた彼女自身が見に感じたそうした喪失感情を、このアルバム全体を通して、とても美しく(しかも“味”をアイテムにして!)表現していると感じることができます。

この“楽”な世界では私と外界との間にはなにも障害物はないけれど、それは同時に“闇のない場所”に生まれたことへの“罪なき罰”・・・“苦しみのない”“守るものがない”ことによって逆に行き着く場所を失くしてしまい、“どこ”にも飛び立てないことの苦しみ、“明日を照らさず”にいる今を、“もがきもせずに”“いつもの場所にいるだけ”の、“最後に残る”だけの、そして“もう2度と帰りはしない”私の苦しみへと導かれうる。そこには世界を構成するはずの凡そすべての要素・・・時間の持続性、空間の持続性、自己の持続性すべてが失われ、“砂の現実”ともいうべき危うい、ちょっと突いてみたら崩れてしまいそうなくらいのぼやけた世界や自我といったもの(=自分自身)が、日々自分自身を脅かし、“潰して”いるのでしょうか。そうした自己完結的な寂しい世界、伝達不能の世界が“透明の箱”や“ガラスの鉢”といった自分を囲む見えない壁に象徴されているのかもしれません。

でも、喪失や死、広く闇が自己を取り巻けばその分一方でじぶんの存在というものが深く問われることになるのも確かです。“存在するは、失うこと”と直球で歌詞にされたのは少し驚きですが、大切なもの、自分にとって意味のあるものを持った瞬間(それまで無意味だったものに存在を与えた瞬間)はじめてそこで自分と対象との間に距離が浮かび、ひとつの喪失が生み出される・・・

現代人が自由恋愛盛んなのは、誰とでも繰り返し恋愛できるのは、単に支配を免れているということ以外に、存在と裏腹である喪失-“今、ここにはない”と欲すること-を、幼年幼女でもアニメでもアイドルでもぬいぐるみでもお菓子でも、自分の身体を愛して傷つけることでも、およそなんでも、喪失や痛みという前提を敷くことで、自らの存在を浮かばせるという側面はあるのだと思います。

それはそうととにかく「世田谷の虫たち」の鳴き声から始まるこのアルバム、本当にユウさんの才能やセンス溢れたすばらしい作品です。

★ゆうofficialサイトはてんのちかくへ★

| | コメント (873) | トラックバック (54)

2006年3月14日 (火)

The Giving Tree(おおきな木)/シルヴァスタイン

有名ですが、この絵本は高校生の頃好きになった柴咲コウちゃんに送った、最初の誕生Ehon391 日プレゼント。最後の一文「きは それで うれしかった」を読み終えて、“ああ、うれしかったんだろうな”と感じるのか、“いや、うれしくなかったはずだ”と感じるのか。コウちゃんだったらきっと、前者(うれしくなかった)かもなと思いながら、しかし一方である期待をして送ってみました。この本はたいていの場合“無償の愛”とか“自己犠牲”といった視点で語られ、与えつづけることが本当に愛なのか?といった問いと供に愛されるのですが、彼女にはそれ以上の問いを期待していたというのが本音です。

与えるとはなんなのか。いやそもそも、この木は本当に与えるだけの存在だったのだろうか?対して“かわいい ちびっこ”はまた、単に与えられるだけの存在だったのか?

この本の「あとがき」において作者は、エーリッヒ・フロムの主張をとって、“「与える」ことは人間の能力の最高の表現なのであり、「与える」という行為においてこそ、人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる”。ゆえに、一本のりんごの木は自分の身を削りひとりのともだちに全てを与える。また“りんごの木が、ただひたすら喜びだけを見出していたことに読者は注目すべき”であり、よって“「与える」ことを忘れないりんごの木に、言い知れぬ感動があるなら、その感動こそ、「犠牲」ならぬ真の「愛」のもたらすものにほかならないのである。”と言っています。

・・・ん?という違和感がないでしょうか。感動こそ愛のもたらすもの?愛ってそんな都合よかったっけ、という違和感が消化できないままシコリになってしまいました。・・・・・「奪う」こと。「与える」が愛のひとつの表現なら、「奪う」もまたアリだろうと感じられたからです。それに、この木はなにも“ただひたすら喜びだけを見出していた”のではけしてなかったはずでは?

“だが それから そのこは ながいあいだ こなかった・・・ きは かなしかった”

木は、「悲しかった」そうです。長い間ひとりぼっちにされていたことが、悲しくて、きっと遠くの世界に嫉妬もしたりして、苦悩して、で、やっとそのこが戻ってきたもんだから、木は与えたのでしょうか、、与えるということは、裏返せば奪われるということ、与えることを望むならば、奪われることを望んだのも、他ならぬ木に違いありません。木は、与えることを通じて、ぼうやを奪おうとした。あるいは、奪われることを通じて、ぼうやに与えられたかった。

この本で愛を感じられ、また感動することができるなら、少なくとも自分なら、それは愛の大きさ所以ではないはず。一方通行ではない欲望の交通、“分かち合い”が、ひたすら与えられ奪われるばかりの描写によって、逆にひしひしと見出されたことにあります。

齢をとってよぼよぼに疲れ果てたおとこに、おとこによって奪われ切り株となった木は精一杯背筋を伸ばし、

“このふるぼけた きりかぶが こしかけて やすむのに いちばんいい。 さあ ぼうや こしかけて。こしかけて やすみなさい。”

“おとこは それに したがった” 

・・・・・・・・・・ぼうやゲットーーーーーー!!!

| | コメント (917) | トラックバック (25)

2006年3月12日 (日)

FROM ME TO YOU/YUI

Jacket_m “そうたったひとつを誰もが ずっと探してるの... 動き出せ 見えないけど 道は開かれている I feel my soul Take me away そうもがきながらも きっとこのまま ずっと歩いてゆける それは偶然でもなくって ありふれた夢なんかじゃなくって You're right all right You're right all right...”(feel my soul/YUI)

去年の春、YUIがTVで“夢って辞書で調べたことありますか”って言ってたので調べてみたら、

①睡眠中にもつ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される。②はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。③空想的な願望。心の迷い。④将来実現したい願い。(広辞苑) 

ってありました。YUIはどこで調べたのかわからないけど夢って、

「叶わないと知っていて思うこと」

だって言ってました。で、夢はなんですかって聞かれたら今度は

「やさしい人になること」

って言っていました。弱みを見せること、人としての傲慢さを曝け出したうえで身を引くこと、矛盾に落ち着くこと、こうしたYUIの魅力、否、人間ならきっと誰でもが共感しうる“夢”がこのアルバムでは堪能できるのではと思います。2ndマキシのTomorrow's wayでは「叶える為に生まれてきたの」と声を張り上げて歌っていました。叶えられないものを実現することに向けられる力、見えないものに無理やり突っ込んでいく力、その逆説した力がそもそも一見わけのわからない「夢」という不思議の輪郭ではないのか、このアルバムを聴いていて、改めてそう感じました。

前述の広辞苑参照の「夢」ですが、①②③④とも両立しそうにないようでいて実は大変意味深い繋がりをもっている気がします。寝ているときには寝ていることはわかりません。自分が夢を見ていたんだと気づくことができるのは、その夢が終わってしまったから。認識というのはそれくらい儚く、それでもその不確かな、確率ゼロに近いところに何か確信に近いものを持って当てにすること、“昨夜見た”夢にしても、“今見ている”夢にしても、つまりそういうこと・・そう思うと、夢とはどっか遠く先に掲げるものというよりは、むしろ、人間という生き物それ自体なのかもしれません。

| | コメント (7775) | トラックバック (159)

2006年2月28日 (火)

☆★県庁の星★☆

「この映画をどんな人に見てもらいたいですか?」

この定番の質問に、主演の織田さんは

「教師と生徒、上司と部下などと見に行ってもおもしろいかと思います」

コウちゃんは

「上からものを見てるような人に見てもらいたい」

みたいなことを言ってた気がします。

メディアにしても、ひろく世間一般的にも、この“対立関係と上下関係”の混同というか、対立関係があったら必ずそこには非合理的な力関係があるはずだという対立と上下をセットにして捉える性格が、やはりあるものです。例えば今日では生徒による教師の評価制度や、労基法による労働時間制限の事実上無機能による過労死、中年男性のうつ・自殺、年金問題など数えたらキリがないほどですが、弱者の枠組みはもはや既存のものではなくなっています。いたるところで対立関係は残存、あるいは興亡しながら、しかしそこにおいての力関係は固定されえないし、個々の力自体が社会の一面一面においてものすごく流動的で、その度に様相は変化するものではないでしょうか。なのでそうした現在、「VS」を主なテーマとして押し出す作品を作るに当たって、この「対立」と「そこに働く力」をいかに区別して、且つ一つの自然な関係へといかに収斂していくか、ということが思いのほか面倒なのではないかと思います。

しかし、織田さんが自身の役について、「知れば知るほど弱さばかり目に付いていいところなんてなかった(?)」みたいなことを言ってた通り、この映画では対立にある両者がお互いに自身の「弱さ」、相手の「弱さ」に気づいていって、そこで「仲間」の有り難味を知る。軸になる図式はちょっと退屈で、ディテイルはかなり大雑把(大胆)でありながら、全体の構成(特に終わり方は!)やメッセージがしっかりしているので嫌味がなく、ユーモアもあるので楽しく見られる、というのが印象でした。

| | コメント (588) | トラックバック (347)

«「無限大」(『鬣』/GO!GO!7188)