2006年5月10日 (水)

『市民科学者として生きる』高木仁三郎

Photo 中学のとき、この種の生徒はどの学校にも一部いるものだし、いるべきだと思うのですが、いわゆる“反抗的な”生徒たちがいました。反抗的なその子たちと、従順な私たちは、人間の成熟度としてはほとんど青二才なのですが、そのために、だからこそ、両極端になってしまったのだと今は思います。自分自身は、目立つことを恥じ入る資質が強く、学校や社会への不信感などを感じてもなんとか押さえ込んでいましたが、同時に自分自身が、そして彼らもそれほど意思というものもない空虚な存在であることは考えていたので、その点ではやたら出しゃばらないというところに優越感を持ってもいました。表面上対岸に位置する彼らの、やんちゃさ、アホらしさ、切実さは、欺瞞と謙虚としての自分自身にとって常に軽蔑と憧れの対象として、強く“必要としていた”ような気がします。それは例えば身なりの派手さは慎重に避けつつも実はロックに憧れていたとか、人のやさしさに憧れながら、シンセサイザーの無機質な電子音に酔いしれていたとか、日々直面せざるをえない自らの矛盾、気持ちを不安にさせて止まない破壊力のようなものにかかっていたと思う。

例えば気に入らない教師がいたり、気が乗らない授業があったり、気に障るシステムがあったり、そういうものに無知なりにもぶつかっていくことは少なくとも一つの反応として意味を持つ、対して何も言わずに-それがいいとも、悪いとも、嘘だとも本当だとも、子どもらしいそういう単純な感覚をただ押し込んで、感動もせず、怒りもせず、ただ与えられた日課をこなすだけの毎日は、与えられた恩恵を享受しているということの反応ではなく、むしろ無反応そのもの。無反応に無反応で安心される気楽な場所に落ち着いていた私たちの多くが、わざわざリスクに飛び込んでいった一部の“例外”にどれだけ支えられていたかということは、もはや明白であるし、感謝もしています。Photo

この『市民科学者として生きる』を読んでいて、著者の揺れながらも常に自分を見つめようとする真摯な姿勢に、論理的に感動しました。というのも、こういう揺れを論理的に説明していくのはとっても面倒で、まだ自分のことくらいしか思慮の行き届かない私のような学習生だったら、ときに挑戦しようと頑張る理屈もわかりますが、ある領域の専門家たる人間がその専門性を「市民」の言葉に降ろす、著者の言葉をそのまま引けば、“話がわかりにくくなる、この十をいかにして一にするか”という訓練を、専門家としての立場と市民としての立場から、根気よく粘ることは、本当に想像を絶する苦労ではないかと思います。同時に、自分自身が確認しえた科学的根拠を導くのに一筋縄ではない物事、ムズカシイ物事を、いちいち常識的な、あいまいな言葉にして、なんとか少しでも的確に伝えようとする姿勢そのものが、とても価値のあるもの、そしてその積極的で学習的な姿勢こそが、著者が真に目指す「市民」たるものの輪郭ではないかと感じられるからです。

また、この本では(私は)よく学んだことのない原発のしくみやそれを取り巻く情勢、プルトニウムの脅威など必要なことを知ることができるので、いい本だと思いました。慣れないところに逃げ腰になりつつ、字面だけ読んでいた箇所もあるので、しばらく時間を置いてまた読み返せたらと思っています。

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2006年3月31日 (金)

『ラブ&ホップ』村上龍

これを読んで、数日前読んだ彼のエッセイで言及されていた「危機感」なるものを、当の村上さん自身から投げつけられた気がしました。Amazonで「村上龍」を検索すると、なんと306件・・びっくり!特段28344527、情報や文学に飢えているわけではないですが、ただ、彼の作品を“もっと読みたい”って思ったら、ただの数字にびっくりしました。『ラブ&ホップ』、そこら中に共感し、感情移入が完璧だったので、あっという間でした。

“あの指輪だけはあきらめたくない、と裕美は思った。あと五万あれば買えるが、自信はなかった。手に入れようとして一度失敗したものを、自分がもう一度手に入れようとするかどうか、あの指輪が試しているのだろうか?来週、海へ行って、自分の中指には、あの指輪がないんだ、何かが足りないんだ、そう思わなくてはいけないが、そう思うのは楽しいことではない。別にいいや、と思って友達とはしゃぐほうが楽しい。自分には何かが足りないという個人的な思いは、その人を孤独にするからだ。

そうするうちに、あの指輪と自分のつながりがゆっくりと消えていく。何かが欲しい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、それはとても難しい、きっと自分には不可能だろう、裕美はそう思った。”(P.221)

“思い立つ日が吉日”/“思い立ったら即実行”。この言葉はいつから広く使われだしたのでしょう?これは本来、実行すればそれはそれでいいけれども、実行しなくても別にやっていけることに使われるのではないかと思いますが、現代を彩るあらゆる衝動的なもの、突発的なもの、その豊かさの中に流れる異常なほどの速さには、“別にやっていける”ことの寂しさ、無力感があるのかもしれない。欲しいものは、本当はなくても生きていけることがわかっていて、その時を逃せばその欲望はたちまち消えてしまう、そのとき絶対的な無力感に襲われることの恐怖といったら、ない。それは上記の文中の「何か足りない」という感じの無力感ではなくて、「最初から何もない」という無力感、“脱力感”というといいかもしれません。力が抜けたまま、入らない感じ。

「会う直前って究極の可能性でしょ?」(コバヤシ・主人公裕美の友達にケイタイを貸したおじさん)

言うまでもないけれど、援助交際では、他人に出会える(他者性といったほうが近いかもしれませんが、ここではあえて)。コバヤシの説教中、ふと(柴咲)コウちゃんがテレビかなんかで話してたことを思い出しました。小学生のころ北海道へ行ったとき、知らない子どもに突然「こんにちは!」と元気良く挨拶されて、ビックリした。恥ずかしくて声が出ず、逃げ出してしまった。そのことが今でも心の中で消化できてないという話。その気持ち悪さは、たぶん、後悔や罪悪感といったモラルの次元ではないように思います。自分が他人として枠の外に見ていた人の枠の中に、いつのまにか自分が入っているという恐れ、不安、そんなものではないかと。孤独だけれど出会いの可能性を持っている人、親密だけれど他人と出会うことをやめた人。テレクラで待ち合わせして顔も知らない人に会う瞬間、なんかドキドキする感じはわかる気がします。いや、すごくわかります。

村上さんは、取材して出会った女子高生たちが“非常にまともで、あまりにも洗練されていた”ことに“今までにない深刻な危機感”を持ったそうです。未来に対して欲や希望なんて持っていないが、ひどく心を病むわけでもなく、勉強も付き合いもそれなりにうまくやっていく、社会の欺瞞や嘘を見抜いているが、それを口に出すわけでもなく、利用もするし、それなりにうまく沿っていくし、息抜きもする、おしゃれも楽しむ、すまし顔で器用に生きていける・・・でも、それでも、人と人の間にある何か、価値のあるものを、彼女たち自身がまた知りうるということもある。少なくともこの小説にはそれがあるので、気持ちが揺さぶられるのです。

裕美は、男が自分の直したぬいぐるみを抱いてうれしそうにするのを見て、うれしかった。それは“普通の付き合い”ではきっと、できない。“普通の付き合い”のなかでは、お互いは自分をどう見せようとか、相手をどう満たしてあげようとか、この場ではこういう風に振舞った方がいいとか、周囲はどう見ているかとか、あらゆる面に自意識が働くもの。それは、続くことを前提としているからかもしれない。けれど一度の取引の中では、ただ「買う人」「売る人」の単純な形式だけがあります。自分が他人として差し出されること、そして、その自分には価値があると認められうること。その可能性への、賭けや期待のようなものが、ときおり見え隠れするのです。

援助交際というのは語り口に過ぎないですが、その語り口は大きいもんと思います。例え分からなくても、理解しようとしなければ、その語り口が語り口であることもわからないまま、敵だけが増えてしまう。

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2006年3月29日 (水)

『骨髄ドナーに選ばれちゃいました』(石野 鉄)を読んで・・・

医師独断による安楽死事件の新聞記事を集めています。まだ読んでいません。そのうちPhoto_5 読む予定です。2ちゃんねる発の『骨髄ドナーに選ばれちゃいました』を読むのに7時間以上もかかりました。掲示板形式の簡素な文章でこれだけかかるのだから、新聞なんか毎日一部読むとしたら、一日の何分の一を新聞に費やせばいいのでしょう?(というか、何日もかかるか・・・)私はそんなに多量の情報についていけません。欲してもいません・・。だから新聞にも番組にも多くは触れません。社会系学部なのに政治や経済についてはお手上げという有様です。そんな自分でも唯一「知っている」と言えること、それは人がいつか死ぬということです。自分だけでなく、家族も友だちもいつかみんな死ぬということ。私が興味を失わないでいられるのはその“死”だけのような気もします。だから、人の死がどのように扱われるか、ということは常に関心の対象です。人の死はそれぞれに訪れるけれど、人はけしてそれぞれに自分の亡骸を焼くことも葬ることもできません。人は独りで生まれることも独りで死ぬこともできない。それなのに独りで生きていると思う・・。人は生まれたそのときからバラバラになるために、一人前に自立するために、教えを受ける・・。

「いろいろな意味で・・・人は誰でも原罪を背負って生きていると考えている。」・・・という鉄さんの言葉が、深く心に染みた気がしました。わたしはその罪は、もしかしたら、人として生まれたことそのものだと、“自分”というものの誕生そのものかもしれないと思っています。“自分”を持つことができるのは、人間だけで・・。でも、それでも、なんらかの“恩返し”の仕方・・報いの仕方、感謝のしかた、そのひとつにボランティアがあるかもしれないという鉄さんのさりげない呟きに瞼が熱くなりました。見ず知らずの人間の命のために我が身にメスを入れること、それ自体はそういう気になったことがないので、肯定も否定もできないのですが・・どんな疑いを抱いても、科学はもう発達しちゃってるわけで、ひとつの可能性になっている。生体移植や献体、自分の大切な人がするといったら否が応でも止めてほしい。でも、反対に、もし自分の子どもなり大切な人がそれによって助かるかもしれないのなら?その可能性に縋ってしまうだろうな。自分は絶対ドナー登録なんてしない!ってずっと思ってましたが、これを見て、今までになく“逆の場面”についてリアルに想像してみたかもしれません。

この本では「骨髄ドナー」という至極近代的な課題を通して、すごく昔からある根本的で容赦のないことを皆が議論しています。

ところで、移植を待っている患者さんが、骨髄を抜いて無菌室に入ったらもう後には引けないというか、その後でドナーからの提供ができなくなったら、もう終わりなんて・・考えたことなかった。その日はDAY0(デイ・ゼロ)って言うんだそうです。どちらにとってもものすごい賭けなんですね・・。そんな重圧下でとことん悩みぬいていく鉄さんの実況レポートはどんな広告より勉強になった気がします。身近になった分、結局以前より混乱してきました。

写真:処分前のデモールホセカ・・・。根詰まりを起こしていたので、萎れた花を鉢から抜いて、土をはらって根を広げてバケツの水に浸したのですが、根が細くチリチリに千切れてしまったため、しばらく経っても起き上がらず処分しました。でも上から見ると咲いてる花よりきれいとも感じられる。そういえば息を引き取った人間も、上からしか見たことないです。どんなに思い出が美しくても、向き合うことができるのは生きているものなのかなぁ。。

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2006年3月14日 (火)

The Giving Tree(おおきな木)/シルヴァスタイン

有名ですが、この絵本は高校生の頃好きになった柴咲コウちゃんに送った、最初の誕生Ehon391 日プレゼント。最後の一文「きは それで うれしかった」を読み終えて、“ああ、うれしかったんだろうな”と感じるのか、“いや、うれしくなかったはずだ”と感じるのか。コウちゃんだったらきっと、前者(うれしくなかった)かもなと思いながら、しかし一方である期待をして送ってみました。この本はたいていの場合“無償の愛”とか“自己犠牲”といった視点で語られ、与えつづけることが本当に愛なのか?といった問いと供に愛されるのですが、彼女にはそれ以上の問いを期待していたというのが本音です。

与えるとはなんなのか。いやそもそも、この木は本当に与えるだけの存在だったのだろうか?対して“かわいい ちびっこ”はまた、単に与えられるだけの存在だったのか?

この本の「あとがき」において作者は、エーリッヒ・フロムの主張をとって、“「与える」ことは人間の能力の最高の表現なのであり、「与える」という行為においてこそ、人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる”。ゆえに、一本のりんごの木は自分の身を削りひとりのともだちに全てを与える。また“りんごの木が、ただひたすら喜びだけを見出していたことに読者は注目すべき”であり、よって“「与える」ことを忘れないりんごの木に、言い知れぬ感動があるなら、その感動こそ、「犠牲」ならぬ真の「愛」のもたらすものにほかならないのである。”と言っています。

・・・ん?という違和感がないでしょうか。感動こそ愛のもたらすもの?愛ってそんな都合よかったっけ、という違和感が消化できないままシコリになってしまいました。・・・・・「奪う」こと。「与える」が愛のひとつの表現なら、「奪う」もまたアリだろうと感じられたからです。それに、この木はなにも“ただひたすら喜びだけを見出していた”のではけしてなかったはずでは?

“だが それから そのこは ながいあいだ こなかった・・・ きは かなしかった”

木は、「悲しかった」そうです。長い間ひとりぼっちにされていたことが、悲しくて、きっと遠くの世界に嫉妬もしたりして、苦悩して、で、やっとそのこが戻ってきたもんだから、木は与えたのでしょうか、、与えるということは、裏返せば奪われるということ、与えることを望むならば、奪われることを望んだのも、他ならぬ木に違いありません。木は、与えることを通じて、ぼうやを奪おうとした。あるいは、奪われることを通じて、ぼうやに与えられたかった。

この本で愛を感じられ、また感動することができるなら、少なくとも自分なら、それは愛の大きさ所以ではないはず。一方通行ではない欲望の交通、“分かち合い”が、ひたすら与えられ奪われるばかりの描写によって、逆にひしひしと見出されたことにあります。

齢をとってよぼよぼに疲れ果てたおとこに、おとこによって奪われ切り株となった木は精一杯背筋を伸ばし、

“このふるぼけた きりかぶが こしかけて やすむのに いちばんいい。 さあ ぼうや こしかけて。こしかけて やすみなさい。”

“おとこは それに したがった” 

・・・・・・・・・・ぼうやゲットーーーーーー!!!

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2006年2月 6日 (月)

『群青の夜の羽毛布』/山本文緒

セカチューブームの最盛期、世間では純愛純愛と口にされましたが、未だにその純愛というものの輪郭がつかめないでいたのは私だけでしょうか。これは、純愛ではないもののほうがありふれている、愛には不純なもののほうが多いんだよという人びとの意識をあえて引き合いにして言われるべきものですが、では愛の純粋さというのもはどういうもので、また愛の不純さというものはなんでしょう。この「純愛」という問題は、人が社会の一員として生活するうえでもつ愛のスタンスを構造的に浮かび上がらせる格好の例だと思います。

「重じいの恋は実らなかったからこそ今日まで長続きしたんだと思うの。一緒にいると嫌なところも目にするじゃない?最後には好きじゃなくなってるかもしれない・・・。でも、私はどんどん好きになっていくって信じたい。」(アキ)

例えば、それは一人の人を一途に強く思い続けることだとします。アキのいうのように、やはり手の届かないものほど人は根強く追うもので、そうするとオタクやストーカーといったものは純愛の典型になります。また一緒にいる人とずっと長くいてどんどん好きになるのと、好きじゃなくなる(=嫌いになる)のとは、心を引きつけられたり心を向かわせる点で、同じです。よくいわれることですが、「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」です。そして思うに、「無関心」の反対こそが「愛」であり、それは個をめがけてそれを専有しようとする全ての心ではないかと。でもそれはそれで既に自明というか、いまさらという感じもあるでしょう。なぜいったい今頃(もう盛期は過ぎましたが)純愛などという言葉がもてはやされるのでしょう。純愛という言葉は、主に男女の性愛目掛けて使われます。それはつまり、共同体において常にリスクとして存在する性愛、その排他的で淫ら(乱ら)なものを不純なものとして整理する社会全体の無意識の鬱屈なりが、純愛という実体不明のものにそれゆえに発散された、一抹の夢のようなものだったのかもしれません。

文緒さんの小説を読んでいると、その登場人物たちがあまりにも誰かに似ていて、ドキリとさせられてしまうのです。それはたぶん私自身にとって、あるいはあなた自身にとって、逃げることのできない自分自身というもの。

厳格な母親の干渉に病み、精神的な疾患から大学も中退し、24歳無職家事手伝いのサトル(女)。安心し、ゆったりと目を閉じていられる時間は、男の人に抱かれている時だけ。どんなに傷ついても戻ってきてしまう「家」。どんなに抱かれても終わらない「不安」。手放せない子どもの頃の毛布・・・。

読み終わった後、なんとも言えないすがすがしさに包まれました。残酷な縺れ合いの果てにも、ある種の清涼感があったりして、それはきっとどんな言葉でも括ることのできない、だけどたしかに今、ここにあるものなのだと実感しました。

これなら映画化してもおもしろいかもと思って探してみたら、もう去年していたのですね・・・。結構イメージと違うんですが。。『群青の夜の羽毛布』映画オフィシャルHP

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2005年12月23日 (金)

文明の衝突

Free かのサミュエル・ハンチントンの名著。この休暇中に最後まで読めたらな、と思います。

さて、夕飯を食べながら何気なく夕方イブニング5(TBS)を見ていたら、スマトラ沖地震から約一年を記念した取材があって、現地の住民が災害への危機感を持続することが難しいというのを悲観的に同情的に報道していました。例によって文化や死生観の違いなど一切省みないで、状況の一面的な切り取り方でしか報道されていないで、さらにコメンテーターさんたちの“一応、何とかしなければならないだろう”という鈍い同情。それはまた私自身の体験による消化しきれない“気まずさ”とも思い当たります。自分より弱いものを見つけたときの同情、自分より弱いものを探したことの懐疑、自分より弱いものか確かでない不安、弱いと思っていたものが生き生きしていたときの解放、いわゆる「弱者」を前にして、私はいろいろな感情に迷わずにはいられません。むしろその迷いがあるからこそ、「弱さ」に引かれるのでしょうか、それはあらゆる関係においての固定された強弱を、バラバラに崩していく快感です。

“災害は自然だから抗えない”という住民の言葉は、「諦めや無力」としか捉えられていなかったけれど、諦めは受け入れでもあって、従属は自由と裏腹でもある。助ける助けるっていうけれど、いったい誰を助けたいのか、家族を全員なくしたから津波がきてもかまわないといって海沿いに住み着いたおじいさんの、防災意識を駆り立てる意味がどこにあるのか?自然を畏怖する者たちを、自然に敵対させる意味がどこにあるのか?日本を形成するメディアが都市文化の論理でしか彼らの幸福を計れないのはつまらないことだと思います。

ボランティアなどの「慈善」活動や国際「協力」も、己の価値観を自明とするなら暴力にもなりえます。見えない暴力ほどはじまったらなかなか処理が難しい。戦後、気づかずにより多くを奪われたのが日本だったかもしれません。

“DOES FREEDOM DESTROY THE INNER DISCIPLINE THAT ALONE MAKES FREEDOM POSSIBLE?”

誰かの論文・・・?(忘)

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2005年12月15日 (木)

落花流水

Kokoko  いろいろな視線から、一人の女性の幼年期から晩年期までを描いた山本文緒さんの小説『落花流水』を読んでいて、ふと自分の人生についても思いをめぐらしてみました。いわゆる「自分を見つめる」というのは経験上あまり甲斐がないので苦手ですが・・・。誰かを傷つけて睨まれたときとか、一人でパニックになってるとき背中に感じる知らない子どもの視線とか、自分の輪郭がくっきりするとき、そこには必ず自分ではない誰かがいました。だから、私自身の人生について考えるとしたら、そこには自ずと家族や友人といった他者を前提とするわけですが、それにはただならぬ未来予見能力が必要とされますよね。大学の教授が、「偶然というのは必然系列と必然の系列との交差点で、その意味で人生の90%は偶然だ」と言っていましたが、必然の運命さえ偶然と捉えたら人生の100%は偶然でしょうか?教授は残り10%の必然に向かってそれくらいは努力して自分で動かしていくもんだと威厳張っていましたが、それなら0%の必然の私は運を信じて、、ちょうど「落花流水」の意味“落花に情があれば、流水にもまた情がありこれを載せ去る”のごとく我おもむくままにゆらゆらしていていいのでしょうか。そんなことがときどき不安で眠れなくなることがあります。

結婚して一人の人とずっと一緒に生活するって、どんな感じなのでしょうか?毎朝毎晩顔を合わせる。多くの場合諦めや妥協が走ることと思ってしまいます。

高村光太郎は結婚してからも死ぬまで智恵子を欲望し続けたようですが、それは智恵子が光太郎にとって遠いからじゃないんですか?何もかも引き締まって無駄がなく、一身に一途な光太郎の愛は智恵子にとってももっとも遠かったのかもと思いました。

執着と思いやりのバランスは難しい。感じすぎているときは、二人が了解しているうちに、純愛なんてありえないのでしょうか?それならただ私たちは相手を喜ばすための術ばかりを身につけたらいいのでしょうか?わからないことだらけです。

そういえば 

“あたしはユラユラ もうこれ以上待てないわ あなたはフラフラ 何も知らずにその扉を叩く”             なんて歌詞も聴いたことが(^~^)

(GO!GO!7188『あぁ青春』)

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2005年12月10日 (土)

GO!GO!7188と桜井亜美の『サーフ・スプラッシュ』

Aisu8 ラララララ・・・♪♪GO!GO!7188大好きなんですが、メインボーカルの方はもう25歳くらいなんですね。詞や声が若々しいので高校生くらいのイメージのまま私の中では動いてないです。このバンドを知ったのは高校卒業後ですが、歌を聴いていると、彼女の声やその声によって発せられるメッセージがなぜか高校時代愛読していた桜井亜美さんの『サーフ・スプラッシュ』という本に出てくる、主人公チサトのものであるかのような錯覚に陥ります。

浜田亜紀子さんの表現力にはただただ脱帽です。

いびつな足♪その向こうに♪開いた穴は♪埋まらな~い♪♪ 

ちなみに『サーフ・スプラッシュ』というか桜井作品はけして、文学的におススメできる本ではありません(_)高校生だから読めたんでしょう・・ただ、十代の竹内結子さんによる文才満ちた解説!はチェックしてみる価値ありかもです。

☆GO!GO!7188☆公式HP★http://www.breast.co.jp/gogo7188/

写真は宇宙食のアイスクリーム(アイスでもクリームでもない気がするけど)

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2005年12月 9日 (金)

『パイナップルの彼方』山本文緒

私はよく変わっていると言われました(ます?)。異常なわけじゃない、みんな同じじゃないかとも思うんですが、そんなジレンマと共に”普通”の中に埋没する自己像を本当は何よりも恐れてたり。いったいそれは誰にとっての普通なのかもわからないのに。

わかりきっちゃった未来。誰かにとっての普通をなぞっていく生き方。永遠のように長くて終わらない、必要なものは何もかもある・・そんな風に人生が淡々と進んでいくことの恐怖。本当は、何もないのかもしれない・・・

”都会の片隅でいとり暮らしをし、父親のコネで入った信用金庫で居心地のいいデイ活を送っている平凡なOL・鈴木深文。上司や同僚ともそれなりにうまくやっていたが、ひとりの新人の女の子が配属された時から、深文の周りの凪いでいた空気がゆっくりと波をたて始めた---。”

茅ヶ崎駅。いつもの朝、次の電車に乗り換えようとしてホームからホームへ移動しようとすると、私の足は自ずと次のホームではなく、改札の方へ向かっていた。周囲が当たり前のように大学進学に関する準備をはじめ、ひとり呆然と海岸で佇んでた春の日。当たり前なはずのやり方・・しかしふと外を見てみると、そこには全く違う世界がある。春のただ青く広い海が、限りなく無意味で自由なのは、そこに何もないからだ。

『パイナップルの彼方』を読んでいて、そんな懐かしいようで、常につきまとう不思議な感覚に耽った。

平凡に苦しんで夢見た、天国の実を、深文はどうしたのか?

先週『ファースト・プライオリティー』を読み、久しぶりに文緒作品を2作読んだのですが、どちらもとってもおもしろかったです。文緒さん、畏れ多いです。

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